役員談話室
「能・文楽・歌舞伎」(ドナルド・キーン)
2008年04月08日
今日はまた本の紹介です。
ドナルド・キーン「能・文楽・歌舞伎」(吉田健一・松宮史朗訳 講談社学術文庫)です。
私は学生時代に親友が宝生流の能の倶楽部に入っていた関係で数度能を観た以外には文楽も歌舞伎も本物を見たことがありません。でもこの本を偶々読み始めてとても面白くて引き込まれるように読みました。
この日本の誇る3つの舞台劇をそれぞれの成立の歴史の実証的分析から演者の仕種の詳細な解説や、何よりも芸術としての深い感動と鋭い批判を渾然一体として表現できるのは日本人も含めてドナルド・キーン氏しかいないのではないだろうか?日本人では多分これほど日本の芸術の真髄を深く、鋭く掘り下げ表現するのは無理だと思う。
ドナルド・キーン氏はニューヨーク生まれのアメリカ人で若くして日本文学に傾倒し、研究を続けてきた学者ですが、アリストテレスの「詩学」、ギリシャ悲劇、シェークスピア、フランス古典劇をしっかり勉強した上で日本文学を学んだのです。従って、その視点は西欧と日本の両方にまたがり、であるが故に相異なる事物の間での共通性と差異性を見抜く力を備えている訳です。
一言で言えば人間の本質に迫る“普遍性”ということです。
例えば本書から引用すると次のような箇所があります。
「能とギリシャ悲劇の一番の共通項は何かと言いますと、文学的に優れているという点です。・・・アリストテレスの「詩学」ですが、それはギリシャ悲劇を元にしており、最も優れた文学は演劇文学という常識を作った画期的な論文です。」
「アリストテレスによると悲劇の主人公は、われわれ観客より身分の高い人でなければなりません。シェークスピアはこの規則を守っていましたので、ハムレットは王子であって、マクベスは武将です。・・・しかし、近松の世話物の主人公には醤油屋に勤める手代屋飛脚屋の番頭などのような低い身分の人がいます。・・・アリストテレスは身分の低い人の不幸はみじめであっても悲劇的ではないという意見だったのでしょうが、近松はどの人にも悲劇の可能性があると信じていたようです。」
私は日本の古典芸能について多くは知りませんが、「能」と「文楽」と「歌舞伎」を総合的に比較分析した有名な著作はないのではないでしょうか。それが出来る事自体がドナルド・キーン氏の“普遍性”を示していると思います。
知的財産の本質を見極めるためには知的財産が生まれる背景である社会経済法律や知的財産を生む主体であるビジネスや人間、知的財産の内容を構成する科学技術的情報についての知識や考え方を身につける必要があります。
発生した問題にハウツーで対応すると別の問題にはそのハウツーは使えません。「急がば廻れ」です。コツコツと本質を理解するための努力を継続することが大切です。それは誰にでも出来ることです。
私もこの「能・文楽・歌舞伎」を読んで、「能と文楽という人間の生きた顔の持つ豊かな表情を使わないで能面や人形という固定された表情、いわばパターンである型で人間の内面を表現するこの2つの芸術が日本で創造されたのは何故だろう?」という問題を発見し、それを考えながら能や文楽を楽しんでみたいと思いました。
宗定 勇(日本知的財産協会 専務理事)