役員談話室
「歴史とは現在と過去との対話である。」(E.H.カー)
2007年07月09日
歴史は、実に多くの事を教えてくれます。唯、自然科学と違って社会科学では普通、実験はできませんから、客観性に乏しいと思われるかも知れません。でも社会科学の命題についても、頭の中で思考上の実験をすれば良いのです。
20世紀初頭のフランスの有名な数学者で哲学者のアンリ・ポアンカレが「科学と仮説」という本の中で、まず仮説を考案すれば、それを検証する実験が可能となり、実験により検証されれば、仮説であったものが新しい真理として科学が進歩するという事を書いています。ポアンカレは自然科学について述べているのですが、この素晴らしい理論はそのまま社会科学にも適用できるのです。
問題は、実験が可能か否かです。私は、社会科学でも思考実験は可能で、真理の探求には有効であると考えます。たとえば、次のような社会科学の1つである歴史学についての仮説を考えてみます。
古代社会ではどの社会でも物々交換で必要な物を手に入れていたのですが、貨幣が発明されると次第にお金を媒介として物と物との交換が促進されます。ちなみに今までに判っている限りでは、紀元前9世紀に現在のトルコの地方を支配していたリディアという王国で最初の金属貨幣が鋳造されたと言われていますが、それ以前にも貝や石等が貨幣の役割を果たしていました。
貨幣はどんな物とでも交換できる便利な制度ですが、それが庶民レベルまで頻繁に使われるまでには長い長い時間が必要でした。日本では室町時代、中国では宋の時代、西欧ではルネサンス前夜の頃でしょう。
一番早かったのはイスラム圏で、ササン朝からアッバース朝の時代です。実は、貨幣による経済が社会全般に普及するには社会的分業が相当程度発達している事が前提となります。日用品と食料が自給自足ないし物々交換できるのなら貨幣取引は必要ありません。
そして、いよいよ貨幣による交換が社会の隅々まで浸透した社会−これを専門家は交換経済社会と言うのですが−になると社会の変化は加速度的に早くなります。分業が益々進み、専門の職人が作った物が商品として定期的に開かれるようになった市において取引されるようになります。交換経済は、商品経済です。
ここから先が私の仮説なのですが、私は、交換経済が進展すると人々は欲深くなると考えます。物々交換するものと違って、お金はいくらでも欲しくなるのが人間です。
ところで今の工業社会、資本主義社会と違って、交換経済が始まった時代の経済成長率は、大変低かったと考えられます。大体は人口増加率と同じくらいと考えてもそんなに間違いではありません。私の計算による江戸時代の日本の年間経済成長率は、0.4-0.5%です。
低い経済成長率の社会でみんなが欲深くなって金儲けをしようとするとどうなるでしょう。粗悪品で誤魔化したり、安い偽物を高く売りつけたり、数量の嘘を言ったりする商道徳に違反する行為も発生しますが、経済史学的には供給過剰に陥り、誰もが儲からないようになる問題が一番困る現象でしょう。そうすると、共倒れ防止制度が必要となります。いわゆるギルドです。
私の第2の仮説は、交換経済が時代と共に進展するとどの社会も普遍的にこの共倒れ防止制度たるギルドを発生させる筈であるという事です。次に第3の仮説は、そのギルドの発生は、他の社会からの影響ではなく、それぞれの社会で、自成的に起こってくる筈であるとなります。
これらの3つの仮説は、一連の論理的な推論です。そして、この仮説論理を検証するにはどうすればよいでしょう。
私はギルドに該当する共倒れ防止制度がどの社会でも普遍的に自成的に発生するとすれば、それぞれの社会のギルドに該当する独自の言葉が出来る筈なので、その事を史実に照らして見てみればよいと考えました。そして、色々な人たちの協力を得ながら以下のように多くの言語におけるギルドに相当する言葉を見出すことが出来ました。
英、独、仏 | guild, Guild, guilde |
---|---|
スペイン | gremio |
イタリア | arte |
チェコ | Cech |
インド(タミル語) | マニグラーマム、アイニューッツルヴァル |
パキスタン (ウルドゥ語) |
ham pasha |
イラン (ペルシャ語) |
rasha |
アラビア | ヒルファ |
中国 | 作、行 |
日本 | 座、株 |
同じ文化圏に属するヨーロッパでさえ、多様な語源の言葉が存在します。同じドイツ語でZunft, Hansaもギルドの一種です。同じ中国語で「作」は職人のギルドで「行」は商人のギルドを表すように同一の経済文化圏の中でもそれぞれの職業集団がそれぞれ共倒れ防止制度を創設して、それぞれの言葉が出来た訳です。
これらのギルドは、ギルドの成員の資格を厳格に定めて、商道徳が壊れないようにすると共に、成員の数を抑制して供給過剰にならないようにしたのです。そしてそのギルドの権威の正当性を国や宗教が保証しました。
私は、私の仮説が思考実験によって検証されたと考えています。皆さんもこんな歴史についての思考を面白いと感じたら、少しずつ勉強をしてみて下さい。人間の素晴らしさ、人間の愚かさ、人間の奥深さを勉強したいと思う人は是非歴史を紐解いて見てください。
近いうちに今度はギルドと特許制度の歴史的関係について紹介します。
宗定 勇(日本知的財産協会 専務理事)